泣いていた子供の話

仕事中、子供の泣き声が聞こえてきた。

 

もう泣きに泣いている。何があったのか?お腹が減ったのか?はたまた眠いのか?理由は定かではない。ただ、泣きに泣いているのは確か。

 

その後、お母さんにどやされたその子は泣き止まぬうちに半ば引っ張られるような形で去っていった。

 

その後、砂時計の砂が一向に落ちてこないような時間を過ごしていた僕はふと考えた。理由は定かではなかったけれど泣きに泣いていたあの子からすればあの尋常じゃない泣きっぷりは何かを訴えるための手段だったに違いない。まだ歩き方も覚束ないくらいの年齢に見えたし、ということは言葉の引き出しもまだ少ないはず。となると、もう泣くしかない訳だ。うおー!こう思ってるんですけど!伝わりません?と、泣いている訳だ。

 

オトナになるとそういう訳にはいかない。そういう訳、というか、もう今となっては何かを訴えるためにクライ・アウトしてしまうにはあまりに歳をとってしまったから出来る訳もなく、普通に使ったり気取って使ったり何となくソレっぽく俗な感じで使ったりする言葉なんてのはもう無意味なくらい知っているけど、いざ自分の気持ちや考えが生々しい言葉になり社会の空気に触れてしまいそうになるとそれをグッと飲み込むことが美徳みたいになってしまった。それがきっとオトナってやつなんだろう。

 

なんてことをふわっと考えていたら、34年間生きてきたこのカラダの中にある言葉の残骸たち、あの時口に出せずに飲み込んでいった言葉たち、きっと饐えた臭いを発しながらもサイクルに飲まれることなくそこにあり続けていくであろう残骸たちのことを考えた。

 

それでもきっと、自分にもかつては思うがままに泣き叫んで、なんで俺の思うがままにならんのだー!耳を傾けいっ!なんてアピールをしまくっていたこともあったんだろう。

 

成長して、知って、思い知らされて、人は言葉を失っていくのかもしれない。勿論、そうではない人達もたくさんいる。そんな人達は概して魅力的であると思う。きっと自分の気持ちを代弁してくれている、痛快だ、そんなところが魅力的なんだと思う。

 

そういった反面、言葉を心のフィルターに通さず雑味のあるままに投げかけてくる人が苦手だ。言葉というのは、それぞれの相手に伝えるための相応しい変換を遂げた後に伝わるべきだと思う。心のフィルターを通さずにはじき出された言葉は子供の泣き叫びとは違う。結構尖っていて、サクッと誰かを刺す可能性がある。

 

なんだか思うがままに脈絡も気にせず書き連ねてしまった。要するにこういうことだ。

 


Earth, Wind & Fire - Let's Groove

 

歌いながら踊りながら、日々を歩いていきたいなと思っています。