痛い

具合が悪い。

 

いつも体の限界、あるいは心の限界に近づくと左半身がとてつもなくダメになる。痛かったりしびれたり力が入らなかったり。非常にわかりやすいカラダ。

 

いつもの腰痛から座骨神経痛が尻の左側でビリビリ痛い。体全体が怠い。昨日の仕事後、ちょっと呑みに行ったけどあっという間にベロベロ。左こめかみが痛い。いつもの頭痛。いつもお腹痛い。今日はうんこが黒かった。昨日食べたマーボーナスのなすがまるまる2本くらい入っていたからそれのせいかもしれないが、病気かもしれない。ちょっとヘコむ。インターネットで調べたら怖くなった。でもトータルで見た時に「まぁいいや」って思ってしまうくらいに人生を投げようとしている現状の方に恐怖を感じている。

 

痛いところばかりでつらい。こんな痛さばっかりの繰り返しから逃れられるのであれば「まぁいいや」という道も選ぶことができそうだ。

 

今はどうしてもいい想像が浮かばない。これからも浮かばないかもしれないけれど。とりあえず、仕事は辞めよう。意味もなく疲弊していくくらいなら辞めた方がいいはずだ。今だって頭痛い。明日、仕事行きたくない。

 

左首筋が痛い。あーもう嫌だ。痛いの痛いの飛んでけ!

 

泣いていた子供の話

仕事中、子供の泣き声が聞こえてきた。

 

もう泣きに泣いている。何があったのか?お腹が減ったのか?はたまた眠いのか?理由は定かではない。ただ、泣きに泣いているのは確か。

 

その後、お母さんにどやされたその子は泣き止まぬうちに半ば引っ張られるような形で去っていった。

 

その後、砂時計の砂が一向に落ちてこないような時間を過ごしていた僕はふと考えた。理由は定かではなかったけれど泣きに泣いていたあの子からすればあの尋常じゃない泣きっぷりは何かを訴えるための手段だったに違いない。まだ歩き方も覚束ないくらいの年齢に見えたし、ということは言葉の引き出しもまだ少ないはず。となると、もう泣くしかない訳だ。うおー!こう思ってるんですけど!伝わりません?と、泣いている訳だ。

 

オトナになるとそういう訳にはいかない。そういう訳、というか、もう今となっては何かを訴えるためにクライ・アウトしてしまうにはあまりに歳をとってしまったから出来る訳もなく、普通に使ったり気取って使ったり何となくソレっぽく俗な感じで使ったりする言葉なんてのはもう無意味なくらい知っているけど、いざ自分の気持ちや考えが生々しい言葉になり社会の空気に触れてしまいそうになるとそれをグッと飲み込むことが美徳みたいになってしまった。それがきっとオトナってやつなんだろう。

 

なんてことをふわっと考えていたら、34年間生きてきたこのカラダの中にある言葉の残骸たち、あの時口に出せずに飲み込んでいった言葉たち、きっと饐えた臭いを発しながらもサイクルに飲まれることなくそこにあり続けていくであろう残骸たちのことを考えた。

 

それでもきっと、自分にもかつては思うがままに泣き叫んで、なんで俺の思うがままにならんのだー!耳を傾けいっ!なんてアピールをしまくっていたこともあったんだろう。

 

成長して、知って、思い知らされて、人は言葉を失っていくのかもしれない。勿論、そうではない人達もたくさんいる。そんな人達は概して魅力的であると思う。きっと自分の気持ちを代弁してくれている、痛快だ、そんなところが魅力的なんだと思う。

 

そういった反面、言葉を心のフィルターに通さず雑味のあるままに投げかけてくる人が苦手だ。言葉というのは、それぞれの相手に伝えるための相応しい変換を遂げた後に伝わるべきだと思う。心のフィルターを通さずにはじき出された言葉は子供の泣き叫びとは違う。結構尖っていて、サクッと誰かを刺す可能性がある。

 

なんだか思うがままに脈絡も気にせず書き連ねてしまった。要するにこういうことだ。

 


Earth, Wind & Fire - Let's Groove

 

歌いながら踊りながら、日々を歩いていきたいなと思っています。

山奥ニートを見た。

仕事後、近くの南池袋公園にて野外ビールを1杯。

 

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アーバン仕様の公園ではカップル達が愛を語らっていました。おじさんはそのすぐそばで一人ビールを飲んでいました。ちゃんちゃん。

 

帰りの西武池袋線にて着信アリ。これからうどんを食べに行くから一緒に行く?とのこと。

 

これ、実はうどんをシメとした呑みのお誘いである。私が住む埼玉県は新座市という場所では、うどん屋は酒場とのハイブリッドスタイルを余儀なくされる地域密着型営業が多い。ラーメン店もそう。つまり、うどんを食べるというお誘いはつまり「呑もうぜ!」ということに換言されるワケである。

 

南池袋公園にてビール完飲後ゴキゲンでD'Angeloを聴きながらぐるっと園内を1週して小躍り気味だった私は迷わず「行きます!」と返信。

 

さあ、ここからが問題だ。というのも、最近酒に弱くなったなぁと実感していたものの頑張って呑もうとする無駄な根性論で晩酌を続けている私はやはりうどん屋で飲み始めてからすぐに酩酊の兆候、シメのうどんを頼んだあたりで自分がどういう気持ちだったのか、何を喋りながら飲んでいたのか、ってかうどんを完食できたのか、ちゃんとお会計できたのか、そのすべてについて疑問を抱くのは翌朝6時の事。 

 

何にも思い出せない。何にも、だ。

 

風呂に入らず寝たのも久しぶりだった。

 

トイレに起きてまた寝ようと部屋の扉を開けたらプンと匂った。あれは間違い無く加齢臭的なアレだった!ついに来たな!と感じながら体が言う事を聞かず再度就寝。

 

何をやっているんだろう、今年34歳になってそろそろアラフィフだっていうのに貯金もロクにないし仕事やめようとしてるしもう4年間くらい彼女いないし実家暮らしだし何考えてるかよく分からないねって言われるしおまけに冷え性だけど脇汗がバカみたいにひどい。やってられない。

 

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自分を肯定できる環境に息継ぎなしで飛び込みたい。山奥ニートって、白髪のペンションオーナーとそのおかっぱヘアの孫娘と訳ありっぽいスナックの若ママがいなくてそしてロケーションが山だったっていうビーチボーイズだ。圧倒的な自然の中で自らを肯定しようと試みるその様は視聴者に勇気をくれます。

 

 

寝ていたい。

 

思い出

なんとなく「映画見よっかな」という気分だったので、買ったままずーっと見ていなかった「フィリップ、きみを愛してる」という作品を見る。

若い頃ジム・キャリーが好きで、色々な作品を見た。Mr.ダマーやエース・ベンチュラの狂気じみたギャグマシーンの彼はおそらくパブリック・イメージとして定着しているが、僕の好きなのはトゥルーマン・ショウやマン・オン・ザ・ムーンのテンションの張り具合。

フィリップ〜では、ギャグマシーンのジム・キャリーは風貌こそ老けてしまったもののまだまだ錆びついちゃいなかった。バリバリに腰は振るし泡も吹くし流石だ。でもやっぱりマン・オン・ザ・ムーンが恋しくなって部屋のDVDコーナーを探ったんだけどない。多分、むかーしに付き合っていた彼女に貸したままだ。

アンディ・カウフマンなんてコメディアンを僕はそれまで知る由もなかったんだけど、ジム・キャリーの完コピと断言してもよいキャラ作りを通して、創り手の苦悩と神経の擦り減らし方を知った。前衛的な何かには苦心惨憺がつきまとうものなんだな…と。

サウンドトラックを担当したのがR.E.Mで、アンディ・カウフマンが歌詞に登場する「Man On The Moon」がエンディングで和訳つきで流れてた。勿論、この楽曲あってこそ「マン・オン・ザ・ムーン」というタイトルの映画になったんだけど。

マン・オン・ザ・ムーン デラックス版 [DVD]

マン・オン・ザ・ムーン デラックス版 [DVD]

この映画の中で、ジム・キャリー演ずるアンディ・カウフマンの妻役はコートニー・ラブだった。カート・コバーンがその頭を自ら撃ち抜いた部屋で流れていたとされるのはMan On The Moonが収録されているこのアルバム。

Automatic for the People

Automatic for the People

そんなつながりもあって、僕はマン・オン・ザ・ムーンという映画が大好きなので、元カノにどうにか連絡を取ってDVDを返してと告げるような狂気じみた行動に出るかAmazonで注文するかしばらく考えてみようかと思う。

前述したこともあってか、今日はR.E.Mを聴いた。Nightswimmingという楽曲が好きだ。声に出して言えないし、こうやって書くのもマズいのかもしれないが、まだ学生の時分に「闇プール」と称し母校のプールに夜な夜な侵入し泳ぎまくるという行為に興じていたことがあった。一度や二度だったけど。ヤバいから楽しいっていう若さ故のアレだったのかもしれない。あの闇プールを思い出すと、マイケル・スタイプが「ナイスウィミーン」って歌いだすんだ。何故だろう。

闇プールにて、50mクロール競争で僕はビリだった。あの2人はその人生を辛くもありながら楽しく未来を見て暮らしている。僕は相変わらずビリで水中でこむら返りという始末…。うーむ、息継ぎ出来ませぬ。

モンタージュ・オブ・ヘックを見た


その昔、中学生時分の私はギターソロをピロピロ弾きまくってるハードロック至上主義だった。例えばジョー・ペリーみたいに低いポジションで悪ガキ感ブリブリのリフを弾きたかったり、エディ・ヴァン・ヘイレンみたいにネックの変なトコトントンしてソロを弾きたかったり。

しかしとっても残念なことに、中学生の私は誕生日に親から買ってもらったアコースティックギターしか持っていなかった。アコースティックギターしか持っていないもんだから電気的なギュイーンみたいな音も鳴らないし、そうなるとギターを練習する気にもならないし、などという言い訳をしながら結局よくありがちな「セーハーの壁」に進路を塞がれ立ち往生していたのだった。

そんな時、友達が僕に教えてくれたのだった…コレを。

Nevermind

Nevermind

中学生の私達がまず最初に「ち○こズルムケ!外人スゲー!」と交わしたのはお約束で、当時実際にズルムケていなかった私ではあるものの、1枚を聴いたことで何かが変わった。そっか、ギターソロなんか弾けなくてもよかったんだ!しかもコードなんてたった4つくらいでいいんだ!メロディーが大事なんだ!と、そんな思いに行き当たり、ギターソロなんて練習するまいと決意。ひたすらF→B♭→G♯→C♯をジャカジャカ弾きまくるうちにセーハーが押さえられるようになったのだった。

そうなると、ギターを弾くことが楽しくなったのだ。

高校生になって、自分ではそんな気持ち 
は全くなかったのだが、気が付いたらいわゆる「不登校」状態になっていた。そしてそこそこの憂鬱感とにらめっこしたりしていた。その時耳元ではカート・コバーンが歌っていた。だからだろうか、リアルタイムで体験してはいないんだけど、ニルヴァーナの音楽はやっぱり何かを感じてしまうのだ。多分「俺の憂鬱の代弁者!」だと思っていたんだろうね、当時の私よ。

コレを見た。

この類の「売り物」に関して、中には眉唾モノもかなり多く存在するのは確か。死人に口なし、人1人を360度見回せばその1人へ善にも悪にも切り込んでいける。見方次第なのだ。

今年になってたまたまコレも読んだ。

カートコバーン/Heaven

カートコバーン/Heaven

この作品の中で「カートはこんなに大きな孤独を抱えた人間だから、多少常軌を逸していても仕方ない…」というキャラクターが形成されているのだが、興味を持ったばかりの人がコレ読んじゃダメです。ズルムケてない奴は殊更です。

モンタージュ・オブ・ヘックという映画は、とても悲しい過去を持つ男が音楽に目覚めて、バンドで事を成そうと努力し、そして成功を収めるが満たされず、それどころか苦境に立たされる羽目になり、でも彼にはとても愛している娘がいて、それでも満たされず、死を選ぶ。そんなカート・コバーンの一生の縮図を近親者の証言と印象的な映像(アニメになってる回想シーンなんかも多々あったり、カート・コバーン直筆イラストが動き回ったりもする)で振り返るファンにはたまらない作品。

こんな映像残ってんかい!というようなかなりプライベートなシーンを撮影した映像が沢山収められている。これがあの鬱々とした10代をニルヴァーナとともに過ごしてきた私にとってはとても印象的だ。幼い頃も死ぬ直前も、素面でもハイになっていても、カート・コバーンはとても人間味のある人物だったんだろうということが伝わってくる。フランシスと戯れる父カートの姿なんて、男の私でも萌える。萌えるというか、あぁ、カート・コバーンという人は病んでいたかもしれないけれど、優しいロックンローラーだったんだなっていうことが伝わってきて胸にグッとくるものがある。

来月にはこんな作品が上映されるみたいだ。
うーむ、まさに死人に口なし。どんな事実があろうとも、音楽を抜きにして考えちゃうともうゴシップしか抽出されないから意味もクソもないっていうね…あまり見る気がしない。

最後にこの写真。
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つくづく思うんだが、ロックンローラーに必要な条件のひとつ、とても重要なひとつは「優しさ」だね。


上大岡備忘録。

11月の朝は冷える。11月の朝でこれだけ冷えるのだから、2月の朝とかは想像しただけで口の中から耳の穴まで霜が降りそうだ。

朝6時出発で本日は神奈川県は横浜市、上大岡へ。先月から何度か仕事で上大岡に訪れているが、やはりだ、どう考えても埼玉から上大岡へ電車で揺られて行くというのは仕事というより小旅行気分である。

ちなみに上大岡について、恥ずかしながらこれまでその地名すら存じ上げていなかった…上大岡を愛する方々には申し訳なく思っている。そして上大岡、お年寄りが多い!凄い、お年寄りコミュニティが凄い!とにかく集まっている!凄いぞ上大岡!こういう土地は多分、町のどこかに昔ながらの姿を残しているに違いない…そう思ったのだ!

近くの商店街には、牛丼屋や居酒屋チェーン店に挟まれながらもキャバレー跡地や雀荘がチラホラ。すげー昭和のニオイ。商店街のアーケードを抜けるといい感じの川が流れている。近くの看板を見るとどうやらこの川は「大岡川」というらしい。f:id:okijimenisuru:20151105010949j:image
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街中を流れているけど、この川をよい状態で残していこぜー!っていう気概が感じられます。この川に沿ってズラーッと桜が植えられていて、春には壮観となるそう。うーむ、見たい!

階段で川っぺりまで下りられるようになってる。だったら下る。f:id:okijimenisuru:20151105011513j:image
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河川改修工事はされたんだろうけど、真っ直ぐに近い流れに整えることはせずに昔ながらの風景を残している。短距離間なのにグネグネと川がうねっていたからそうなのかなぁ?と思った(地理とかもう学生の時なんて成績つかないくらいだったし…)。居住区域からの高低差があるのは、グネグネしてるけど水が出たとき大丈夫なように!ってあれこれ想像してると面白い。昔は地理なんてグリンピースごはんのグリンピースくらい嫌いだったのに。
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なんか白くてでっかめの鳥が羽ばたいた。近付いたら逃げられた。誰もお前を夕餉にしようなんて思っちゃいないよイッヒッヒ。飛び立つ瞬間を激写。昔、熱写ボーイっていうエロ本あったなぁ。
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さっき渡った橋を見上げたら、あら、私と同じ名前の橋だった。ありがちなんだけど、こういう大したことない出会いに何か大きな意味を探しちゃうんです。こういう小さいことに目がキラキラしちゃうアラフォーへと邁進していきたいものです。本当にちっちぇーな俺。

明日も6時起き。アベンジャーズの新作、買いました。f:id:okijimenisuru:20151105014024j:image
いつ見れんだろ。

愛用という意味を改めて調べてみた

今週のお題「愛用しているもの」

愛用しているもの?結構ある。割と物持ちがいいほうというか、愛着からか面倒臭さか、もうそれ壊れてんじゃんか!と言われそうな物も未だに使い続けていたりする。なのでここはギュッと絞って、これがなくてはもうどうにもならん!死んじゃう!っていう観点でピックアップしましたこちらドスン。


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ipodです。これはipod classicなんですが、もうないんですね…実はコレ、故障した先代ipod classicがもう修理不可だよってことになり、代わりにやって来た2代目なのです。今はもうiphoneがあるしipod touchもあるし、存在感が薄くなっちゃったんだろうなぁ。あのクルクル操作出来るってのは革新的だったなぁ。


なぜ未だにipod classicなんて使ってんの?時代遅れじゃん!って思われるかもしれませんが、やはり!160GBという容量は何よりも魅力。もう数えることすら嫌になる量のCDを所有してしまっているので、それをどのように聴くか?となるとCD持ち歩くって選択肢はどうしても選べず、やはりipod classicなワケです。

どんなに沢山の曲数を持ち歩いていたって、絶対聴かない曲あんべ!無意味無意味!って思う人もいると思いますが、そんなあなたが正しい。何回も聴かない曲なんていっぱいあります。持ち歩いている!っていうところに重きを置いている…のかもしれないです。世の中で一番理解出来ないもの、それは自分だったりするかもしれません、なんでこんな無意味なことをやってんだろうかと思ったり…ね。

成田山に行った時、たまたまThe Whoのアルバムを聴いていたんです。多分コレ。

I Can See for Miles

I Can See for Miles

寺の裏側に広がる木陰を歩きながら、この最初のEコードを聴いたらヤベー!ってなったんです。多分10年くらい前。自然とロックの融合。

最近はこんな時がありました。

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井の頭公園で散歩しながら聴いていたのはコレ。

Grand Prix

Grand Prix


そう、こんな時、ipod classicを愛用しているなー俺と感じます。

明日は6時起きだってのにもう1時過ぎです。もう厳しいの確定です。人生が暇つぶしだとしたら、愛用している物はもっと愛していきたいものです。